生きづらいということ(2)
私の生きづらさとは、具体的には何なのか、考えて来ました。
暴力とか病気で苦しんだわけではないです。それだけで有難いはずなのに。
長い間混沌としていたけど、最近ようやくたどり着いた答えがあります。
それは、あるべき姿(期待)と、現実との乖離に対する、悲しみとか、もっと言えば怒りだったのかな、と思います。
大した期待しているわけではないから、得られない悲しみや怒りも、大きくなります。
期待していることは、例えば・・・
- 両親が普通に仲良くして欲しい → 実際はいつもけんかや口論している
- 母親に幸せでいて欲しい → 実際は常に不満があり愚痴ばかり聞かされる
- 友人に私の話も聞いて欲しい →実際は自分の番は簡単に飛ばされる
- マッサージしてあげたら自分も時々はして欲しい、もしくはそんなにさせないで欲しい →実際はいつも私がマッサージしている
上記の例はわかりやすく単純化してしまっていますが、要するに、自分の周囲には常に、期待と現実の乖離があるわけです。しかもその乖離は、私の価値観では、「あるべきものではない」。
あるべきものではないものを受け入れる過程が、苦しさを生み出した。
そして、その過程において、自分でさらに、乖離を大きくする行動をとってしまうようになったことに、気づきました。
例えば、上記の例では、「がまんして愚痴を聞いてしまう」「自分の事は言わない」「次は私ねと言えない」という風に、どんどん、自分が好きじゃない方向へ、自ら動いてしまうのです。
前の記事で、語学習得に精を出した、と書きましたが、その流れで海外生活を長くしていました。
英語圏では、こう言う人格はpleaser と言われます。
そう、自分ではその人の為に、その人が喜ぶことを、しているつもりなんですよね。
なのに、喜ばれるどころか、だいたい変なことになっていました。上記の例だと、
- 勝手な娘だと言われる
- 母親を大切にしていないと周りに思われる
- 友人に距離を置かれる
- 尽くしたのに捨てられる
もっとひどい言い方だと、Doormat Personality とも言います。
西欧の家で靴を拭う為においてある、こういうやつです(笑)。
Doormat Personalityについては、また後日、ゆっくり考察したいと思います。
とにかくこんな感じが小さい頃から続き、すっかり人を避けるようになってしまいました。
そうすると孤立しますね。人間は、社会的なつながりの中で生存してきたので、つながりがなくなると、ストレスを強く感じるようになっているらしいです。*1
孤立は辛いです。おひとりさまはそれでそれで楽しいけれど、やはり何らかのつながりがあるからこそ、一人が楽しいと言える気がします。
様々な書籍やブログを読んでも、やはり人間の幸せとは、つながりの程度に強度の差はあっても人間社会から孤立しないで、でも同時に、ある程度の権利や自由を享受できる環境に身を置く事。これに尽きるのではないかと思うのです。
「生きづらさ」を克服して、この境地に少しでも近づきたい、と思っている今日この頃です。